★3つ。

小野不由美さんの短編は『十二国記』シリーズなど
短くても胸にずしんと残るものが多くて、そういう迫力を期待してしまう。
『営繕かるかや怪異譚』、その点で少し物足りなく感じてしまった。

面白くないわけでは全く無い。
家に起こる怪異が
それを理解し想像力を働かせることによってさらりと解決する…
という作りはなんとも奇妙で面白い。
今より少し前の時代には怪異が身近なものとして存在したのだ、
奇妙なことではあるけれどそれほど特別なことでは無いのだ、と感じる。
怪異が当たり前に存在する異世界に
するりと連れていってもらえるのだ。

ただ、怪異に出会った人々の生きざま、出会うまでの経緯が
緻密な描写で語られているから
怪異が治まって話もおしまい、となると
あれ、彼らはその後どうなったの?と気にかかってしまう。
入り込んだ気持ちがあっさりとかわされて
現実より少し歪んだ怪異の世界に
取り残されたような気分になってしまう、という感想。

緻密な描写ゆえにするっと物語の世界に入り込み、
そしてまた緻密な描写ゆえに取り残された気分になる。
さらりと解決する怪異話、面白いんだけど
もっと重い小野不由美を…!と思ってしまうのは、
小野不由美世界のかなりの中毒なのかもしれない。




『営繕かるかや怪異譚』

この家には障りがある―
住居にまつわる怪異を
営繕屋・尾端が鮮やかに修繕する。
怪談専門誌「幽」に連載の物語。

参考:「BOOK」データベース

★4つ。

西加奈子さんの『さくら』、色々な感想を読んでみると
好き嫌いがずいぶんはっきりと分かれる物語のよう。
優しくて暖かくて好き、という意見と、むしろ不快、という意見。

自分は一読して暖かい気持ちになったので
不快という意見を初めは意外に思った。
でも、否定意見に納得できるところもある。
登場人物の性格が極端でリアリティに欠ける、
出来事があまりに悲惨すぎる、など。
確かに…と思いつつも、私自身は『さくら』になぜか惹かれる。

極端で激しい性格の登場人物たちは、なかなか現実にはいないだろう。
ただ、自分や誰かの持っている特質を
思い切り強調すると彼らのようになる気がする。
彼らの性格は、よく知っている誰かのとある部分に少し似ている。
彼らが喜び苦しむ姿は、その誰かの姿に重なる。
ある意味リアリティに欠ける人物の喜び悲しみが
なぜかとても強烈な現実味を持つ。

彼らを襲う大きな不幸。
私は本当は、登場人物があまりにも不幸になってしまう物語は
基本的には好きではない…というか、疑ってかかってしまう。
ただただ読者を泣かせるためだけに
悲惨さを強調したのではないか?と。

『さくら』の登場人物を襲う不幸は、相当痛い。
幸せだった頃の家族の姿が、とても優しいものだったからよけいに。
1人がこらえ切れずに口走る「なんで、こんなひどい」…
確かに思う、こんなにひどい目に合わせなくてもいいじゃないか、と。
そんなにひどい目に会わせる「何か」を、作者を、
きらいになっても不思議じゃない。

けれど、きらいになれない。
不幸はあまりに大きくて、けれど、
そこから再生しよう、立ち直ろうとする強さと、
それを見守る大きな「何か」と作者の底なしの優しさが感じられるから。

登場人物に「打てないボールばかり投げる」と文句を言われている、何か。
本当は、どんなボールでも受け取ってくれている、何か。
大きな「何か」は本当は、彼ら家族を優しい目でただ見つめている。
その目は、家族をつなぐ犬のサクラの無邪気な目にそのまま重なる。
サクラの、「何か」の、無邪気な底なしの優しさが、物語全体を流れている。

その底なしの優しさが、私は好きだ。
不幸は、現実の世界にあるから。
この物語以上の不幸が現実にあると知っているから。
だから、せめて小説の世界ではそこまでの不幸を見たくない、という思いと
そんな不幸を優しさで越えていこうとする人々の
強さを見ることができてうれしい、という思いと。

『さくら』、不幸と優しさと両方があって、狭間にあって。
嫌いな「泣かせるためのただただ悲惨な物語」と
一瞬思えてしまうほどの痛々しさなのだけど、
その不幸を越えようとする登場人物たちを見つめる目が
あまりにも優しくて、惹かれるのだ。




『さくら』
ヒーローだった兄ちゃんは、20歳4か月で死んだ。
超美形の妹は内に篭もり、
母は肥満化し酒に溺れ、僕も実家を離れた。
あとは、12歳の老犬「サクラ」だけ。
そんな一家の灯火が消えてしまいそうな、
ある年の暮れのこと。
「年末、家に帰ります。おとうさん」。
家出した父からの手紙は、
スーパーのチラシの裏に書かれていた―。

参考:「BOOK」データベース

★4つ。

長い時をともに過ごしてきた和歌と仙太郎。
それぞれの仕事へのスタンスがちがってくると同時に
2人の生活と感情にもすれちがいが起こってしまった。

角田光代さんの『私のなかの彼女』
女性である和歌の立場で書かれた物語だから、
読了後すぐは和歌の気持ちで、仙太郎はひどい男、という感想だった。
あり得ない誤解をし、傷つく言葉を投げ、あっさりと去って行った男だ、と。
けれど、和歌は悪くない!とも言い切れない、もやもやとした気持ちが残って。
仙太郎の立場でこの物語を見てみたら、ちがう景色が見えた気がした。

遊びや人間付き合い、仕事、何かと和歌を導いてきた仙太郎。
彼と同じように「書く」ことを仕事とし
有名になっていく和歌に仙太郎は嫉妬し、
その仕事を妨げようとした…と最初は思った。

けれど、それだけではないのだろう。
嫉妬も戸惑いもあっただろう。
それでも、和歌の受賞を喜び、
会社を辞めたといきなり聞いても冷静に受け止めていた仙太郎は
変わっていく和歌と共に生きようとしていたのではないか。
でも、仕事より先に暮らしや家族を大切にしたかった仙太郎にとって、
不器用に仕事のことしか考えられなくなってしまう和歌は
理解の範疇を超えてしまった。
自分にとっての大切なものを和歌がないがしろにしているのを見て、
先にどうしようもないほど傷ついたのは仙太郎だったのではないか。

仙太郎の別れ方は冷たいと思ったけれど、
きっとそうでなければ別れられなかった。
和歌には自分なんかいらないのだ、
という結論に達したがゆえの、あの別れ方ではなかったか。
どうせ自分のことなんかいらないくせに何をいまさら…という、
愛していたがゆえの腹立ち。
ひどい誤解も、仙太郎にとっては事実で、
和歌がいくら違うと言ってもそれは覆りようがない。

同様のことが、和歌の母親にも言える。
娘になんてひどいことを言うのだろう、と思ったけれど、
最も否定してきた生き方をしている娘に
自分の人生そのものを否定された気になって傷ついたのではないか。
病気もあって、冷静ではいられずに和歌にひどいことを言ってしまった。

きっと誰1人悪いわけじゃない。
ただ、すれちがってしまった。行き違ってしまった。生き方が重ならなかった。
そしてそのことは、お互いをひどく傷つけ合ってしまった。

別れた後に2人が出会うシーン、
和歌に放ったひどい言葉を仙太郎は忘れている、と和歌は思ったけれど、
仙太郎は、和歌が自分より仕事を選んだことを忘れている、と思っただろう。

結婚して家庭を築く幸せを選んだ仙太郎と、
ぞっとするほどの孤独に憧れ、その孤独を自分の中に見る和歌と。
仙太郎も和歌も、どちらもわたしの中にもいる。
ちがう形でも幸せになって、そしていつか、
お互いをそっと遠くから許し合える日が来ればいい、と思う。
 




『私のなかの彼女』

男と張り合おうとするな。みごとに潰されるから。
祖母の残した言葉の意味は何だったのだろう。
全力を注げる仕事を見つけて、
ようやく彼に近づけたのに、
和歌と仙太郎の関係は、
いつかどこかでねじ曲がった。

参考:「BOOK」データベース